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【世界遺産検定】ゴレ島

ーーー前置きーーー

現在、世界遺産検定2級取得に向けて勉強中です。これまで、順調に4級、3級と一発合格してきましたので、2級も余裕だろうと思ったのですが、そんなわけにはいかなそうなのでアウトプットを兼ねてここで記事を書きます。自分が興味を持った遺産について書いていくので順番はバラバラです。

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■ゴレ島(セネガル

 文化遺産、登録基準 (6)、登録年 1978年

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こちらは、黒人奴隷を商品として三角貿易が行われていた拠点『ゴレ島』言わずもがな、負の遺産として登録されています。15世紀後半~18世紀前半までの長い間、ポルトガルに始まり、オランダ、イギリス、フランスに次々支配され、ここを拠点に黒人たちが奴隷としてアメリカ大陸に送り込まれていきました。最盛期は18世紀頃で、ここからアメリカに送られた奴隷の数は総計2000万人を超えるといわれています。

島の東側には、『奴隷の家』が残されており、1階部分は船の出港を待つ奴隷たちが待機させられていて、2階には奴隷たちを商品にしていた商人たち(白人)が住んでいました。2.6m四方の正方形の狭い部屋に、20人が鎖でつながれており考えただけで怒りで震えますわ。ここで、奴隷たちは値付けされ、船会社の焼印を押され監禁。体重が規定(60kg以上)に満たない男の子は、家畜の飼料を食べさせられ太らされたのです。もちろん、こんな劣悪な環境ですから伝染病も蔓延し、出港前に亡くなった人たちも多くいました。

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奴隷たちは裏口にある「戻らずの門」を通って船に乗り込みます。

この奴隷船が出港してからも、船倉の中に身動きもできないほどに詰め込まれ、鎖でつながれていました。この時代の航海は危険と隣り合わせ。そんな中で更に劣悪な環境下で、何千㎞もの大西洋を渡ったのですから当然大量の死者が出ましたよね。無事にアメリカ大陸にたどり着いたのがほんの一部で、途中で亡くなった奴隷たちは容赦なく海に放り込まれ、鮫の餌となったそうです。島の北部には、フランスが完成させたエストレ要塞があり、今では歴史博物館として残っています。

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「戻らずの門」どんな気持ちで通ったのでしょうか。私には想像もできません。

そして、なぜ、白人は偉かったのでしょうか。

なぜ、肌の色が黒いと奴隷だったのでしょうか。

考えても答えはわかりませんね。

お金を持っていたのが偶然白人が先だっただけ。そしてその分、文化や知能が先に進んでいただけ。だとすると、肌の色なんて本当は関係ないのかもしれませんね。これらすべてが、有色人種が先だったら、奴隷にされていて鎖につながれて、死んだら海に投げ捨てられていたのは白人だったのでしょうから。

 

そして、奴隷制度=黒人と思いがちですが、奴隷制度は同じ人種内でも起きていましたので、何も白人対黒人だけではなかったんですね。

日本国内にも、たくさんありましたよね人身売買。

親が子供を売ったり、旦那が妻を売ったり・・・

人間って、本当はこんなに野蛮で薄汚いんだなぁと歴史をみると思いますよね。いかに、現代人が穏やかでルールや規律の上で生活しているかわかる。当時はそれが無かった。身分に差をつけて、人間扱いする必要が無かった。だって「平等」が正義とされていなかったから・・・ってことなんですよね。