【世界遺産検定】知床
ーーー前置きーーー
現在、世界遺産検定2級取得に向けて勉強中です。これまで、順調に4級、3級と一発合格してきましたので、2級も余裕だろうと思ったのですが、そんなわけにはいかなそうなのでアウトプットを兼ねてここで記事を書きます。自分が興味を持った遺産について書いていくので順番はバラバラです。
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■知床(日本・北海道)
自然遺産、登録基準 (9)(10)、登録年 2005年
知床は、北海道の北東部にある半島で、半島の中央に高さ1,200~1,600mの知床連山が貫いている、長さ70㎞、幅25㎞ほどの小さな半島です。この山を挟んで、オホーツク海側(ロシア側)を『ウトロ』、反対側(太平洋側)を『羅臼(らうす)』と言い、気候や地形が大きく異なります。気候が違うため住民の生活も異なり、ウトロ側は観光や農業で栄えていますが、羅臼側は漁業が中心の生活となっているそうですね。
湖沼や湿原、滝など自然環境も豊かなため、植物も多彩でミズナラやエゾマツなど異なる木々が分散しています。
また、北緯約44度に位置する知床は、地球上でもっとも低い緯度で海水が結氷する【季節海氷域】です。オホーツク海にアムール川から淡水が流れ込むことで、塩分が薄い層ができます。それがロシアからの寒気で結氷し、知床周辺の海を凍らせるそうです。寒そう~!!!
これだけの自然環境ですから、多くの動物が住んでおり、海の生き物と陸の生き物の食物連鎖がうまく循環しています。知床には、絶滅危惧種のシマフクロウやオジロワシも生息していますし、天然記念物のオオワシが冬を越す場所にもなっています。また、ヒグマの生息密度が世界一だそうで、ちょっと怖い・・・
これだけの生物多様性ですから、日本で唯一、世界遺産登録基準の10が認められています。また、この環境を守るため、市民が土地を買い取る『しれとこ100平方メートル運動』や、環境維持と観光産業の両立を図るための『知床エコツーリズム推進協議会』も設置されています。これらの活動も高く評価されているそうですね。
やはり、世界遺産として登録されることは一つの名誉ですが、それ以上に地域の人たちや国が価値を認めて守っていくのは、何より大切なことなのだと思います。
【世界遺産検定】「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群
ーーー前置きーーー
現在、世界遺産検定2級取得に向けて勉強中です。これまで、順調に4級、3級と一発合格してきましたので、2級も余裕だろうと思ったのですが、そんなわけにはいかなそうなのでアウトプットを兼ねてここで記事を書きます。自分が興味を持った遺産について書いていくので順番はバラバラです。
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■「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群(日本・福岡)
文化遺産、登録基準 (2)(3)、登録年 2017年
比較的新しい世界遺産なので、あまり知らない人も多いかもしれない遺産ですね。私も行ったことありません。ここは、福岡県宗像市と福津市にある『沖ノ島』『宗像大社』『古墳群』など8遺産が登録されています。このすべてを持って、宗像・沖ノ島の信仰の歴史を伝えているのです。
こちらは従来、朝鮮半島や中国大陸へ行く際の、航海士にとって目印となる島でした。そのため、【海の航海の安全を祈る場所】として4世紀から500年もの間、様々な国家的な祭祀(さいし)が行われてきました。今でこそ、方位磁石があったり海の上までGoogleMapが示したりしてくれますが、当時は精度の怪しい手元の地図と目に見えるもの、星や太陽の動きだけですものね(星の動きなんて見てたかな・・・?)
また、4世紀というのは、ヤマト王権(4~6世紀以降の古代日本政権のこと)と朝鮮半島の百済(ひゃくさい/くだら)の結びつきが強まった時代ですから、このような交易の証拠と祭祀の跡が残っている場所として価値が認められているんですね。
祭祀の移り変わりを見ることもできます。祭祀は、ずっと変化なく続いていたわけではなく、場所や内容など時代に合わせて少しずつ変わっていきました。
①岩上祭祀(巨岩の上で行う)
②岩陰祭祀(ひさしになった岩の陰で行う)
③半岩陰・半露天祭祀(半々の場所で行う)
④露店祭祀(平らな場所で行う)
また、祭祀の時に使用された奉献品が約8万点も見つかっており、これらすべてが国宝していされています。すごいですね~!銅鏡、金製指輪、カットグラス破片、雛形五弦琴(ひながたごげんきん)、富寿神宝(ふじゅしんぽう)などなど
1000年以上も経っているのに、これらが残っている最大の理由は、島全体をご神体とする信仰の中で、上陸が禁止されていたからだと考えられています。宗像大社は、沖ノ島自体をご神体とする自然崇拝から、宗像三女神という人格をもった神に対する信仰にかわり、最後はその両者が共存するいまの【宗像・沖ノ島】へなりました。
9世紀ごろには国家的な祭祀は行われなくなりましたが、宗像三女神への信仰は続き、17世紀ごろには以前の露天祭祀から社殿をもつ祭祀へと変わりました。
<宗像三女神>※天照大御神(あまてらすおおみかみ)が生み出す
・田心姫命(たごりひめのみこと)
・湍津姫命(たきつひめのみこと)
・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
また、古墳に関しては、宗像市の名前にもなっている当時の富豪一族『宗像家の人々』の墓(古墳)で、5~6世紀ごろ作られたとされています。ちなみに、ヤマト王権が百済と交易する時に頼ったのが、この宗像氏なんですね。彼らのマネーと知識、技術がなければ、鎖国しなくても鎖国状態だったかもしれませんね。
【世界遺産検定】厳島神社
ーーー前置きーーー
現在、世界遺産検定2級取得に向けて勉強中です。これまで、順調に4級、3級と一発合格してきましたので、2級も余裕だろうと思ったのですが、そんなわけにはいかなそうなのでアウトプットを兼ねてここで記事を書きます。自分が興味を持った遺産について書いていくので順番はバラバラです。
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■厳島神社(日本・広島)
文化遺産、登録基準 (1)(2)(4)(6)、登録年 1996年
厳島神社(いつくしまじんじゃ)は名前からして、もう素敵ですね。島に降り立った時は、鈍感すぎてちょっと何も感じなかったのですが、本殿側から大鳥居をパーーーっと見た時に「こりゃすごいわ」と口に出ました。
さて、この厳島神社ですが、建っているのは瀬戸内海に浮かぶ、厳島(宮島)です。ここには、弥山(みせん)という山がありこの山を含む島全体が『神の宿る島』として信仰対象となっています。ここは、『宗像三女神(むなかたさんじょしん)』を祀っています。
<宗像三女神>※天照大御神(あまてらすおおみかみ)が生み出す
・田心姫命(たごりひめのみこと)
・湍津姫命(たきつひめのみこと)
・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
※覚え方はTTI姉妹(笑) ゴメンナサイ
世界遺産に登録されているのは、
・本社本殿(寝殿造り、何度も天災や火災などに見舞われている)
・能舞台(重要な儀式の場で、足拍子が響くよう床は一枚板)
・大鳥居(クスノキを用いた鳥居、現在工事中)
・客神社(本殿と両流造りでつながっている)
・弥山(原始林は1929年天然記念物指定、1957年特別保護区指定)
これらの建造物は、593年ごろから始まり今の状態になったのは平安時代後期の1168年頃であるとされています。また、【平清盛】は敬虔な信者だったとのことで、彼により社殿が整えられたり、厳島神社を平家一門の守護神として位置づけたりしました。
その後も、幾度なく天災や火災、風水害にあいますが、そのたびに権力者の援助で再興されました。明治維新後は、政府管轄で保護・修繕されてきています。そのくらい、大切にされてきた対象で場所なんですね。
宮島のシンボルである大鳥居は、4本の控え柱で支える両部鳥居で、これは1537年の再建時にこれ以上崩壊しないようにと、添えられたそうです。
【世界遺産検定】石見銀山遺跡とその文化的景観
ーーー前置きーーー
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■石見銀山遺跡とその文化的景観(日本・島根)
文化遺産、登録基準 (2)(3)(5)、登録年 2007年
島根の山間にある石見銀山。その昔、16〜17世紀にかけて発展したこの銀山とその周辺を含めて登録されている文化遺産で、日本で唯一文化的景観が認められている場所です。
遺産に含まれているのは、
・小規模な手掘りの坑道【間歩(まぶ)】
・集落や役所
・鉱山と鉱山街
・石見銀山街道
・銀の積出港【鞆ヶ浦】や【沖泊】
・温泉津などの港と港街 等々
14世紀初頭に発見された石見銀山は、その後16世紀に発展期を迎え、17世紀初頭には、なんと世界の1/3に相当する銀を産出していたそうです。しかも、日本から出る銀の殆どが、この石見銀山でまかなわれていたそうで、とてもすごい場所なんですね。
この銀山がここまで発展し、日本一の採掘量を誇れるようになった背景には、途中で朝鮮半島から技術者が2人来てくれて、そこで【灰吹法】が教えたれたからです。
そして、良いことばかりではなく、これだけ稼いでくれる石見銀山なので、ここを巡って当たり前に争いも起きました。マタカヨ
戦国時代には、大内、尼子、毛利氏が仁義なき戦いを繰り広げ陣地を争いました。結局、最終的には関ヶ原の戦いで勝った徳川家康がゲット。その後もグイグイ儲けていくのですが・・・
江戸時代に幕府が『鎖国政策』をしてしまったので、これ以上石見銀山に海外でさらに発展した技術が伝わることなく、遅れてしまったんですね。その結果、貿易もちゃんとできないし、需要と供給のバランスも崩れ、最終的には休山することとなったそうな。
鎖国政策って、現在のコロナにも通じるところがありそうですね。やはり自分の国と文化を守ることが最優先ですから。当時の幕府は、力でねじ伏せることができたようですが・・・今の日本は個人の価値観に任せます!ってスタイルですが、国によって違うしどの形が正解かわかりませんね。
<鎖国政策とは>
江戸幕府が、キリスト教の排除(禁教)して対外関係を統制すること。日本は、自国を中心とした安定的、固定的な関係を選んだ国とだけ構築するものでした。他にも色々理由はあるみたいですし、「はい!今日から鎖国します!」と言ったわけでもなく、徐々に海外との交流(特にヨーロッパ方面のキリスト国)を禁止していったみたいですね。一般的には1639年~1854年の215年間が鎖国期間とされているみたい。終わりは、有名なペリー氏が来た時です。
【世界遺産検定】広島平和記念碑(原爆ドーム)
ーーー前置きーーー
現在、世界遺産検定2級取得に向けて勉強中です。これまで、順調に4級、3級と一発合格してきましたので、2級も余裕だろうと思ったのですが、そんなわけにはいかなそうなのでアウトプットを兼ねてここで記事を書きます。自分が興味を持った遺産について書いていくので順番はバラバラです。
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■広島平和記念碑(日本・広島)
文化遺産、登録基準 (6)、登録年 1996年
ここは、1951年にチェコの建築家『ヤン・レツン』が設計した建物で、元々は広島県物産陳列館として開館し、その後は広島県立商品陳列所として改称され、第二次世界大戦時には『広島産業奨励館』として活躍していた。
これを、壊したのは言うまでもなくアメリカが投下した原子爆弾『リトル・ボーイ』ですね。
ーー世界遺産検定教科書よりー
1945年8月6日午前8時15分、アメリカの爆撃機エノラ・ゲイが投下したこの爆弾は、広島産業奨励館の南東約160m、高度約580mで炸裂。発生した火球による強力な熱戦と爆風のため、広島の街は一瞬にして破壊された。広島産業奨励館も大部分が崩落したが、衝撃波をほぼ直上から受けたため、ドーム部分の鉄筋の骨組みと壁の一部が残された。
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倒壊の危険性に加えて、悲惨な出来事を思い出したくないと、取り壊しの声もかなり上がったそうですが、被爆の恐ろしさと悲惨さを後世に伝えることを広島は選びました。
1966年に正式に広島市議会で原爆ドームの永久保存を決定し、1996年に世界遺産登録。同時に負の遺産として【核兵器廃絶及び世界恒久平和】という【ヒロシマの願い】を発信し続ける、世界的に重要なモニュメントとなりました。
この3日後、長崎にも原爆は落とされていますよね。
これでやっと日本は、8月14日にポツダム宣言(アメリカ・イギリス・中国から日本への降伏要求最終宣言)を承諾しました。そして翌日1945年8月15日の正午、昭和天皇の玉音放送(天皇陛下の肉声による放送のこと)で、大日本帝国の敗戦が全国民に伝えられました。
ただ、他の国では、実際に日本がポツダム宣言による降伏文書に調印した1945年9月2日を第二次世界大戦の終戦日としているようです。
昔、地球へ帰還した毛利飛行士は「宇宙からは国境線は見えなかった」と言いましたね。実際は宇宙に行ったことないのでわかりませんが、そう言うことでしょう。
【世界遺産検定】 紀伊山地の霊場と参詣道
ーーー前置きーーー
現在、世界遺産検定2級取得に向けて勉強中です。これまで、順調に4級、3級と一発合格してきましたので、2級も余裕だろうと思ったのですが、そんなわけにはいかなそうなのでアウトプットを兼ねてここで記事を書きます。自分が興味を持った遺産について書いていくので順番はバラバラです。
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■ 紀伊山地の霊場と参詣道(日本・和歌山、奈良、三重)
文化遺産、登録基準 (2)(3)(4)(6)、登録年 2004年/2016年範囲変更
3件にまたがっている紀伊山地には、古代から続く霊場が点在しています。世界遺産に登録されている主な場所は以下の4つ。
・吉野・大峰霊場
・上記3か所を結ぶ参詣道
これらの霊場は、神道と仏教が融合した【神仏習合】という考え方です。日本には元々神様が多数存在しましたよね。自然の中にも神様がいたり、朝廷にも神様がいました。仏教が外国から伝わった際に、仏教の仏も日本古来の神様の一人として迎えられたそうです。神社に神宮寺が建設され、神前読経が行われるようになり、当時から受け入れる文化だった日本は、うまーく融合していったんですね。
明治政府が『神仏分離令』を出すまでは、日本では仏教と神道の区別は特になかったそうです。この神仏分離令により『廃仏毀釈運動』がおき、神社の中にあった寺院や仏像が次々と破壊され、数多くの貴重な文化と文化財が失われたそうです・・・なんでそんなことしたのかしら。
また、廃藩置県(明治4年に明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革)に伴い、寺社領は没収。財政基盤がなくなった寺院は廃寺になったのです。一方神社は、国家祭祀の施設として政府の管理下に入らされましたが、第二次世界大戦後は、神道も一宗教となり現在にまで続いています。
眠い・・・
【世界遺産検定】姫路城
ーーー前置きーーー
現在、世界遺産検定2級取得に向けて勉強中です。これまで、順調に4級、3級と一発合格してきましたので、2級も余裕だろうと思ったのですが、そんなわけにはいかなそうなのでアウトプットを兼ねてここで記事を書きます。自分が興味を持った遺産について書いていくので順番はバラバラです。
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■姫路城(日本・兵庫)
文化遺産、登録基準 (1)(4)、登録年 1993年
姫路城は、日本に残る城の中でも木造城郭建築の最高傑作とされています。
<持ち主/関係者>
赤松則村(あかまつのりむら)が砦を作って
↓
羽柴秀吉(はしばひでよし)が拠点にして
↓
池田輝政(いけだてるまさ)がそのあと城主となって
↓
本田忠政(ほんだただまさ)が最後に城主となった
覚え方「え!赤羽に池があるの?本当だ!」(笑)
姫路城は、白漆喰(しろしっくい)の総塗籠(そうぬりごめ)の外壁で、その優美な姿から【白鷺城】とも呼ばれています。もちろんそれだけではなく、かなり巧妙で実用的に作られている城でもあります。
・らせん状に構築された複雑で巧妙な縄張り
・自然丘の地形を生かした曲輪(くるわ)や堀
・数多く配置されたやぐらや門
・内部から弓や鉄砲を撃ちかけられる狭間(さま)
・石や熱湯を浴びせかける石落としなどの仕掛け
これらによる高い防御能力を兼ね備えている城でもあるのです!すごい!
更に、1615年の一国一城令(一国に大名が居住あるいは政庁とする一つの城を残して、その他の城はすべて廃城にしなさいというもの)、明治維新の廃城令、第二次世界大戦の戦火・・・これらすべてを免れた姫路城は、江戸時代初期の姿をそのまま残してあるのです。
2009年~2015年にかけて屋根瓦や漆喰壁の保存修理が行われましたが、修復を行いながら「真正性」を保ったため、かなり高い評価を得ています。
※真正性とは、材料・構造・工法など修繕する時もできる限り当時のものや方法を使うのが望ましいとされる概念