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【世界遺産検定】世界遺産の歴史

ーーー前置きーーー

現在、世界遺産検定2級取得に向けて勉強中です。これまで、順調に4級、3級と一発合格してきましたので、2級も余裕だろうと思ったのですが、そんなわけにはいかなそうなのでアウトプットを兼ねてここで記事を書きます。自分が興味を持った遺産について書いていくので順番はバラバラです。

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<2級公式テキスト>

 

 

世界遺産の歴史

元々アメリカでは1872年の時点で「すごい自然は守ろ!」的な感じで、イエローストーン国立公園を守っていたのです。その59年後の1931年には「すごい建造物も守った方が良くない?」ってなって、ギリシャで会議してたしってことで【アテネ憲章】って決まり的なことができたのであります。

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※写真はイエローストーン国立公園です。

 

そのうち、第二次世界大戦が始まっちゃって・・・終わったはいいけど戦争したことも、それによって世界をボロボロにしちゃったことも後悔した人々が「よし!もう戦争しないようにしよっ!」って決めたのが【ユネスコ憲章】ですね。

ユネスコとは、ニューヨークに本部がある国連の中の専門機関としてパリにできたものです。本名は【国際連合教育科学文化機関】と言います。

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そして、この時に誰か知らないけど偉い人が「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」って良い言葉を言ったのです。本当それ・・・同感です!!

それから、自然を守るのも文化を守ることもしていくのですが、まずは1948年に自然を守るために組んだチームが、IUCN(International Union for Conservation of Nature、国際自然保護連合)で、国や民族も超えて「地球として自然を守ろう!」ってなったんですね。

その後、今度は文化を守ることについてもオランダのハーグって場所で考えたのです。「武力紛争の際の文化財の保護に関する条約」ってのをね。これもまた、ハーグでやってたから【ハーグ条約】と名付けられました。ネーミングセンス(笑)

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※写真はハーグです。ウツクシイ

そして、実際に文化財の保存修復に関する援助を行うのは、ICCROMというユネスコ機関で1959年に設立されました。

 

そして!

記念すべき初仕事が「エジプトのヌビアの遺跡群救済キャンペーン」です。1952年に当時のエジプト大統領が「みんなのためにダム作ることにしたんだけど、アブシンベル神殿やフィラエのイシス神殿が沈むからHELP!」ってユネスコに依頼してきた。

ユネスコは経済や人々の生活の発展&遺産保護の両立を図るべく、1960年~1964年まで色々考えて、募金活動を始めた。

正直、考える時間長すぎではありませんか?と思っています。だってダム作ることにしてから10年くらい経ってますけど(笑)こう言っちゃなんだけど、色々決めるの遅いよね。一般企業ならつぶれるわ。

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※写真はアブシンベル神殿。こりゃ守るわ。

 

その4年後には、アテネ憲章(歴史的建造物も守ろうよ)が採択された時の会議の2回目が、今度はイタリアのヴェネツィアで開かれました。そこで、もう一回審議を重ねた結果、アテネ憲章では「修繕の際は別に今の時代の物を使ってもいいことにしよう!」としていたのですが、今回は「いや、修繕する際は建設当時の工法や素材を尊重しよう!」と変わりました。

これを【真正性】と呼び、この時決まった憲章の名前を・・・

 

 

せーの

 

 

ヴェネツィア憲章】

 

 

と呼びます!!!!!

ネーミングセンス(笑)

そして、このヴェネツィア憲章の考え方に基づいて1965年に設立されたのが、ICOMOSというチームです。これで、自然はIUCN、文化や建築物はICOMOSとICCROMとなりました。

しばらくそのまま、色々守ってたのですが、ICOMOS設立から7年後に開かれた国連人間環境会議で「文化と自然を一緒に保護しない?ベースの気持ち一緒でしょ?」となり、ここで保護する対象を世界遺産と呼び【世界遺産条約】で守ることが決まりました。これで、自然も文化も一緒の条約で守っていくこととなり、全8章38条からなるすごく長い条約ができました。

そして、この条約で定義されている世界遺産の条件に当てはまるものを、世界遺産リストに登録していくことと決め、記念すべき最初の遺産は12件で1978年に登録されましたとさ。

 

<最初の12件>

アーヘンの大聖堂(ドイツ)
クラクフの歴史地区(ポーランド)
ヴィエリチカとボフニャの王立岩塩坑(ポーランド)
シミエン国立公園(エチオピア)
ラリベラの岩の聖堂群(エチオピア)
ゴレ島(セネガル)
メサ・ヴェルデ国立公園(アメリカ)
イエローストーン国立公園(アメリカ)
ランス・オー・メドー国立歴史公園(カナダ)
ナハニ国立公園(カナダ)
ガラパゴス諸島(エクアドル)
キトの市街(エクアドル)

 

ちなみに、日本は1992年に世界遺産条約を結んでメンバー入りしました。その後、1993年に屋久島、白神山地、姫路城、法隆寺地域と仏教建造物群の4件が一気に登録されました。

同じく1992年には、ユネスコの中で世界遺産も色々やってたけど、さすがに規模が大きくなりすぎて、別枠で【世界遺産センター】を立ち上げることにしました。分社化的な感じですね。そして、同じく1992年に【文化的景観】という概念もうまれました。

これまでは「作った時の状態を保っていることこそ素晴らしい!」として登録していたのですが「でも、人間が自然と共に作り上げてきた景色や文化自体も素晴らしいじゃん!」ってことも認められたんですね。

前者だと、地震などが少なく風化しにくい石造りの建物が多いヨーロッパばかりが有利で登録されていたのですが、この文化的景観が採択されたので、もっと幅広い地域で登録に値する遺産が増えていきました。

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日本で最初に文化的景観が認められたのは「紀伊山地の霊場と参詣道」です。その後、石見銀山遺跡も登録されていますね。

 

以上、世界遺産センター設立までの歩みでした!

 

【世界遺産検定】ランス・オー・メドー国立歴史公園

ーーー前置きーーー

現在、世界遺産検定2級取得に向けて勉強中です。これまで、順調に4級、3級と一発合格してきましたので、2級も余裕だろうと思ったのですが、そんなわけにはいかなそうなのでアウトプットを兼ねてここで記事を書きます。自分が興味を持った遺産について書いていくので順番はバラバラです。

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■ランス・オー・メドー国立歴史公園(カナダ)

 文化遺産、登録基準 (6)、登録年 1978年

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この場所は、10世紀ごろヨーロッパからやってきたヴァイキングたちが暮らしていた住居跡があります。現在では、そのうち3か所の建物が修復されて残っており、ノルウェー歴史学者によると、この場所が北米の中で一番最初にヨーロッパ人の入植地(開拓の為に移住した地のこと)となった場所だろうとのことです。

はっきりと見つかり発掘作業が行われたのは結構最近で、1960年にヘルゲ・イングスタッド(ノルウェー探検家)とその妻アン・スティーン・イングスタッド(考古学者)が、7年間にも及ぶ発掘調査を実施。その結果、10世紀ごろのグリーンランドアイスランドの遺跡と類似点が多くあったため、ノース人が起源であると判断されたそうです。

残っている記録によると、ビャルニ・ヘルヨルフソン(アイスランドからグリーンランドにいる父親に会いに行くところだった)が発見し、レイフ・エリクソン(ヴイキング)に伝えて彼は出発。結局、その後トルフィン・カールセフニという全然別の人が入植を試みたと言うことです。

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冒険家たちはすごいな~

 

ところで、ヴァイキングと海賊とパイレーツって何が違うの?と思ったので調べてみました。

ヴァイキング=海賊だと思っていたのですが、ヴァイキングとは「スカンジナビア沿岸地域に住んでいた人たち」を指す言葉だそうで、なかにはその辺の船を襲うことを生業としていた人たちもいたそうなのですが、ヴァイキング=海賊集団・・・というわけではないようですね。

一方、海賊とパイレーツは同じ意味で、日本語か英語かの違いだけでしたね。

ちなみに、食べ放題の「バイキング」は和製英語ですが、元々は帝国ホテルにある「インペリアルバイキング」という名前のレストランから来た言葉です。

というのも、当時の支配人が、スウェーデンコペンハーゲンへ行った際に、スモーガスボード(スウェーデンの料理で、肉・魚・野菜などの各種料理を食卓に並べ自由に取り分けて食べるもの)というものを知り、日本に持ち込むことにしたんだそう。

その時に、レストランの窓から見えたホテルの名前が「バイキング」で、かつ当時上映されていたバイキング映画の中でも、海賊たちが豪快に好きに食べている姿を見て、最終的に、レストランの名前をそう名付けたと言うことです。

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最近ではおしゃれに「ビュッフェ」と呼ばれていますが、これも日本での使われ方と海外での使われ方には違いがあるので、和製英語っちゃ和製なのかな。

【世界遺産検定】メサ・ヴェルデ国立公園

ーーー前置きーーー

現在、世界遺産検定2級取得に向けて勉強中です。これまで、順調に4級、3級と一発合格してきましたので、2級も余裕だろうと思ったのですが、そんなわけにはいかなそうなのでアウトプットを兼ねてここで記事を書きます。自分が興味を持った遺産について書いていくので順番はバラバラです。

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■サ・ヴェルデ国立公園(アメリカ)

 文化遺産、登録基準 (3)、登録年 1978年

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メサ・ヴェルデとはスペイン語で「緑の台地」と言い、その名の通り緑の台地が広がっています。その中にポツリポツリと断崖があり、そこは『クリフパレス』と呼ばれる、崖をくりぬいて作られた居住スペースがあり、12世紀ごろから先住民のアナサジ族が住んでいたそうです。(アナサジ族は1世紀ごろから周りには住んでいた)

最大の場所では、200~250人ほどが住んでいたとされており、4層構造で220の部屋と『キヴァ』と呼ばれる23の円形地下礼拝所があります。日干し煉瓦を積み上げたり、貯水システムがあったりと、かなり高い文明を持っていた彼らですが、なんと14世紀後半には、忽然と姿を消してしまったそうです。

しかも、理由はいまだ明らかになっていない・・・なぞ。化石となって発見もされていないらしいので、疫病などによりその辺でバタバタ倒れて全滅してしまったわけでも無いそうな。ただただ忽然と姿を消したとのことで、なぞは深まるばかり。

ところで、14世紀というと、【ヴィエリチカとボフニャの王立岩塩抗】や【クラクフの歴史地区】あたりの話だよね。

日本では鎌倉時代くらいの話で、すでに東大寺やら延暦寺やら数々の繊細な建造物はとっくに建ってたんだよね。日本すごくない?

 

【世界遺産検定】ヴィエリチカとボフニャの王立岩塩抗

ーーー前置きーーー

現在、世界遺産検定2級取得に向けて勉強中です。これまで、順調に4級、3級と一発合格してきましたので、2級も余裕だろうと思ったのですが、そんなわけにはいかなそうなのでアウトプットを兼ねてここで記事を書きます。自分が興味を持った遺産について書いていくので順番はバラバラです。

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ヴィエリチカとボフニャの王立岩塩抗(ポーランド

 文化遺産、登録基準 (4)、登録年 1978年

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クラクフ郊外にある世界最古の岩塩採掘場『ヴィエリチカ岩塩抗』と更に30㎞程離れた『ボフニャ岩塩抗』が世界遺産に登録されています。14世紀~16世紀には、この岩塩抗(岩塩を採掘するために掘られた穴のこと)から得られる収入がポーランド王国の1/3の財源だったというから驚き。

さすが塩の価値ってすごかったんですね。

ヴィエリチカ岩塩坑は全長約300km、最深部は327mに達する巨大採鉱場で、深さ100mのところには、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』のレリーフが彫られています。

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ところで、サラリーマンの「サラリー」って「塩」って意味で、昔は給料=塩だったんですって。人間が元気でいるには塩分(ミネラル)が必要です。今でこそ、わざわざ塩を舐めなくても、様々な食べ物に嫌でも塩が入ってますが、昔はそうじゃなかった。なのに、塩を得るのがとても大変だったんですね・・・お金と同じ価値があるなんて塩はすごかったのですね。

※塩を買うためのお金を「サラリー」として渡していたとの説もあるようです。でも、この話イギリスの大学の歴史教授に聞いたんで、たぶんこっちが本当ではないかと。

この岩塩抗の魅力の一つは、岩塩をけずってつくられた多くの彫刻です。しかも、プロの彫刻家が彫りに来たのではなく、そこで働いていた作業員たちが彫ったそうな。すごすぎ・・・

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そもそも、日の光も当たらず、湿気の多い場所。倒れる人も多かったそう。想像を絶するかなり過酷な労働状況だったのでしょうから、彼らは少しでも気を紛らわせようと彫り始めたのかもしれませんね。

なかでも地下101mの『聖キンガの礼拝堂』は、どうやって作ったのか全くわからないレベルですごく精密に「塩」で作られています。

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ここは、馬も連れてこられて働かされていたそうです。貨車を回したり、重たい荷物を引っ張ったり・・・

ちょっとこの洞窟へ入るのは怖いけど、行ってみたいですね。

 

 

【世界遺産検定】ナハニ国立公園

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■ナハニ国立公園(カナダ)

 自然遺産、登録基準 (7)(8)、登録年 1978年

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カナダの北西部に流れる、サウスナハニ川沿いに広がっている『ナハニ国立公園』は、標高2,972メートルのマッキンジー山やバージニアの滝を抱えている公園です。

「ナハニ」は、デネ族(ネイティブアメリカン)の言葉で「精神」を意味するらしく、それだけこの場所が崇められ大切にされてきたと言うことでしょう。バージニアの滝は、なんと90mもの落差がありカナダ内でトップです(ナイアガラの滝の2倍の高さ)

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また、この公園はツンドラ地帯(1年中、地中温度が0度以下。常に凍結している土地で、降水量の少ない地域のことね)にもかかわらず、穏やかな気候なため、ハッカやシオンなどの植物や、グリズリーやカリブーシロイワヤギなどの野生動物も多く住んでいます。

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カナダのカリブー、めちゃくちゃかっこいい・・・

 

【世界遺産検定】ラリベラの岩の聖堂群

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■ラリベラの岩の聖堂群(エチオピア

 文化遺産、登録基準 (1)(2)(3)、登録年 1978年

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12世紀末、ザグウェ朝の時代に7代目の国王ラリベラが、このエチオピアの中心の街を『第2のエルサレム』にしよう!と言い出して、都としたそうな。

そもそも、今でこそエルサレムは、ユダヤ教キリスト教イスラム教の3宗教の聖地となっているが、キリスト教徒の『十字軍』が建国したので、キリスト教の聖地だったのだ。その辺の人たちはみんなエルサレムへ巡礼に行っていたってわけ。

しかし、1187年、イスラム教側のサラーフ・アッディーン(サラディン)率いる『アイユーブ朝軍』がエルサレムを奪い取ってしまった。この戦いを『ヒッティーンの戦い』と言いますが、詳しくは割愛。

そこで、巡礼に行けなくなってしまったので、第2のエルサレムを自分の近くに作ったというわけなのです。

それも、なぜか伝統的な教会建築方法ではなく、1枚岩を削って教会をくりぬいて作ると言う斬新な方法で・・・なぜ(笑)

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しかも、わずか20年ほどで11の岩窟聖堂を作らせたそうですから、とんだブラック王朝だよ。場所は、ヨルダン川を挟んで、北と南に5か所ずつ、更にちょっと離れたところに1か所あります。聖堂は、アクスム王国様式やビザンツ様式など様々なデザインで作られており、その素晴らしさから現在も世界遺産エチオピア正教の聖堂として保存されています。

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ちなみに、この世界遺産の入場料はとても高いです。日本円で6,000円以上するとか。エチオピアの物価から考えたら、ぼったくりすぎだろう!と思わなくもないですが、選択肢もないんで行ったら払いますけどね・・・

地震により、水回りがかなり被害を受けたことと、壁画や彫刻レリーフも崩れかけているとのことですから、近い将来危機遺産登録される可能性もありますね。

 

 

 

 

【世界遺産検定】ゴレ島

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現在、世界遺産検定2級取得に向けて勉強中です。これまで、順調に4級、3級と一発合格してきましたので、2級も余裕だろうと思ったのですが、そんなわけにはいかなそうなのでアウトプットを兼ねてここで記事を書きます。自分が興味を持った遺産について書いていくので順番はバラバラです。

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■ゴレ島(セネガル

 文化遺産、登録基準 (6)、登録年 1978年

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こちらは、黒人奴隷を商品として三角貿易が行われていた拠点『ゴレ島』言わずもがな、負の遺産として登録されています。15世紀後半~18世紀前半までの長い間、ポルトガルに始まり、オランダ、イギリス、フランスに次々支配され、ここを拠点に黒人たちが奴隷としてアメリカ大陸に送り込まれていきました。最盛期は18世紀頃で、ここからアメリカに送られた奴隷の数は総計2000万人を超えるといわれています。

島の東側には、『奴隷の家』が残されており、1階部分は船の出港を待つ奴隷たちが待機させられていて、2階には奴隷たちを商品にしていた商人たち(白人)が住んでいました。2.6m四方の正方形の狭い部屋に、20人が鎖でつながれており考えただけで怒りで震えますわ。ここで、奴隷たちは値付けされ、船会社の焼印を押され監禁。体重が規定(60kg以上)に満たない男の子は、家畜の飼料を食べさせられ太らされたのです。もちろん、こんな劣悪な環境ですから伝染病も蔓延し、出港前に亡くなった人たちも多くいました。

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奴隷たちは裏口にある「戻らずの門」を通って船に乗り込みます。

この奴隷船が出港してからも、船倉の中に身動きもできないほどに詰め込まれ、鎖でつながれていました。この時代の航海は危険と隣り合わせ。そんな中で更に劣悪な環境下で、何千㎞もの大西洋を渡ったのですから当然大量の死者が出ましたよね。無事にアメリカ大陸にたどり着いたのがほんの一部で、途中で亡くなった奴隷たちは容赦なく海に放り込まれ、鮫の餌となったそうです。島の北部には、フランスが完成させたエストレ要塞があり、今では歴史博物館として残っています。

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「戻らずの門」どんな気持ちで通ったのでしょうか。私には想像もできません。

そして、なぜ、白人は偉かったのでしょうか。

なぜ、肌の色が黒いと奴隷だったのでしょうか。

考えても答えはわかりませんね。

お金を持っていたのが偶然白人が先だっただけ。そしてその分、文化や知能が先に進んでいただけ。だとすると、肌の色なんて本当は関係ないのかもしれませんね。これらすべてが、有色人種が先だったら、奴隷にされていて鎖につながれて、死んだら海に投げ捨てられていたのは白人だったのでしょうから。

 

そして、奴隷制度=黒人と思いがちですが、奴隷制度は同じ人種内でも起きていましたので、何も白人対黒人だけではなかったんですね。

日本国内にも、たくさんありましたよね人身売買。

親が子供を売ったり、旦那が妻を売ったり・・・

人間って、本当はこんなに野蛮で薄汚いんだなぁと歴史をみると思いますよね。いかに、現代人が穏やかでルールや規律の上で生活しているかわかる。当時はそれが無かった。身分に差をつけて、人間扱いする必要が無かった。だって「平等」が正義とされていなかったから・・・ってことなんですよね。